“希望的観測”と書いて“可能性”と読む

お酒を飲んだので気分が良い。

なので一筆窘めようと思う。
 
僕は色んなことに興味がある。
しかしどれも中途半端でもある。
 
お茶が好きで紅茶のこと調べたり色々飲んだり、作れそうだなという軽い気持ちからお菓子を作ったり、大してグルメでもないのにフレンチを食べに行ったり、羊羹がそこまで大好きでもないのに羊羹コレクションなるイベントに目を輝かせたり、単純にワインが飲めるようになりたいという気持ちでワインを買ってみたり、戦闘機がカッコ良いという理由で航空祭に行ったり、綺麗な風景を撮りたいからカメラを買ったり、世界遺産が好きだから世界遺産検定を受けてみたいという気持ちになったり、なんとなく料理教室にも行ってみたいというのもある。
……枚挙に遑がないとはまさにこのこと。
 
要するに適当なのである。
適当だが僕にとってはそれなりに大事なことでもある。言わばそれらは楽しみであり、他人に否定されてしまうと悲しいのだ。
 
興味があるということを言わなければ否定もされないのだろうけど、やはり僕も人の子、評価されたいという気持ちが根っこにはあって、小さな自尊心を満たす為にやってるなぁと思うときがある。
 
なんでもできたいとは思うが、自分にはそれらを極める気概はないし、ある程度満足したら飽きてしまう。僕には努力をするということが欠けている。
その割にはここまでは出来ないといけないという制約を課してバカみたいにハードルを上げて苦しんだりしている。バカみたいにというかバカである。
 
とまぁ飲みながらそんなことを考えていたのだが、果たして僕には出会いがあるのだろうか。あったとしても価値観を共有できるのだろうか。
急にそのような不安がふつふつと湧いてしまい、どうしようもなくなったのでこれを書いている。女の子と飲んだから気分は良いんだ。
 
しかし前述の通り、僕は努力ができない。
結局のところは良い巡り合わせが訪れないかなぁと神に頼る始末である。
 
でもねでもね、「希望的観測」という言葉があるでしょう。字面がよいよね。
そうであってほしいという僅かな希望でも0%ではないという可能性をあるんだ。
だからいつか必ずよい出会いが…。
 
そんな僕にタイムリーな言葉が読んでいた本から放たれる。
 
「可能性という言葉を無限定に使ってはいけない。」